金剛院について
金剛の 玉と栄ゆる 大御代に なほさかえます 松の寿
金剛院は1394年、 応永年間に創建されました。
これだけの歴史があるお寺というのは、ずっと地域で大切にされてきたということです。
皆さま方にお寺を知っていただくために色々なイベントを開催しています。お寺の空間は意識を深めていく仕組みがあります。お寺の空間を感じることによって静寂と安心感がやってきます。習慣化されるリモートワークなど距離化される中であっても土を踏み風を感じるその環境に身を置いて、心で味わい結び行くことを忘れてはなりません。祈り 想い・感情・感覚・体感 空気感・・・五感に正直でいる心は、人間から失われてはいけない財産であると切実におもうことです。 本堂という空間に座るだけで、 落ち着くことを実感できると思います。
お寺に当たり前にある仏さま、荘厳 (飾り) お経など、それらは仏さまのいる世界、悟りの世界を表しています。お寺は仏の温かい御心に触れていただける特別な空間です。どうぞたくさんの仏さまに会いに来てください。只々手を合わせに来てください。現代の寺子屋として開かれたお寺を目指しています。どうか身近な存在 (憩いの場) として感じ、穏やかな気持ちになって 「お寺っていいな」 と思ってもらえれば幸いです。

ご紹介
倉内城の松の緑が今も輝く
北関東三十六不動尊の二番霊場である金剛院は、天台宗の寺院であるが、明治十四(一八八一年、成田山新勝寺から不動明王を迎え、「成田五大尊講」(現沼田成田山金剛講)で大いににぎわったといいます。現在でも厄よけで知られ、節分には市内、郡内ばかりか前橋・高崎方面からもたくさんの人が参拝、ご祈祷、年男、年女の豆まきが行われています。
また門を入った右手には、水掛け不動尊があります。「諸願成就 北関東唯一霊場 節分大祭第六十回奉修記念」として、昭和五十五(一九八〇)年に完成したものである。水を掛け、手を合わせ、祈願する人が絶えません。
倉内城から移した「金剛の船松」は、樹齢四百年、今なお「帆に満風を受けて疾走する船のごとし]といわれるままの雄姿を誇ります。全長十五メートル、高さ五メートルの松で、水掛け不動尊の隣にあります。

水掛け不動尊
この石庭は、東北の霊山鳥海山の銘石鳥海石大小108個を組み合わせ、庭師武井良一氏が精根こめて1年を費やし築造したものであり、今は亡き武井氏の一代傑作として後世に名を残すものと思います。

金剛院船松
倉内城から移した 「金剛の船松」 と呼ばれる松があり、 樹齢450年、 今なお 「帆に満風を受けて疾走する船のごとし」といわれるままの雄姿を誇ります。
全長 十五メートル、 高さ五メートルの松です。


ひきうけ地蔵
ひと言お願いすれば、どんな事でもひきうけてくださるお地蔵さまで「ひきうけ地蔵」と呼ばれ、必ず叶えて下さると伝えられる大変あらたかなお地蔵さんで多くの人に親しまれています。
「余計なことを考えず、本当に必要なこと一つだけを一言で願う」 ことが大切。
そしてお願いするときは、
「おん・かかかび・ひさまえい・そわか」 と、お唱えしてください。
さあ、みなさんはなにをおねがいしますか?
ひきうけ地蔵の石柱の字 (揮毫) は笑点でお馴染みだった落語家の林家木久扇師匠の書です。
回向柱
晋山式にあたり御本尊とのありがたいご縁が生まれます。
金剛院の御本尊「一光三尊(いっこうさんぞん) 阿弥陀如来」 は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、お姿をされています。
本尊中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた五色の糸は「善の綱」として、本堂前の回向柱に結ばれます。
その回向柱に触れることは、御本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたいご縁が生まれ、その功徳ははかりしれ ません。


金剛院の懸魚と鬼瓦
懸魚(げぎょ)は、火除けのまじない。
懸魚(げぎょ)は、神社仏閣の屋根に取り付けた妻飾りです。
近くの神社や寺院を訪ねて屋根の鬼瓦がある辺りを見ると破風板に吊り下げてあります。
建物が切妻屋根か入母屋造りの屋根であれば必らず付いています。
懸魚は、火に弱い木造寺院を火災から守るため、水に縁のある魚の形をした飾りを屋根に懸けて火除けのまじないとしこれと同じように神のご加護にすがって災禍を避ける例としては、城郭の天守に上げている鯱(しゃち)や鴟尾(しび)が同類のものです。他にも似たものでは、魔除けを祈願する鬼瓦の例などがあります。
懸魚の呼び名は、古い年代では「掛魚」と「懸魚」の文字が使われて「けんぎょ」と読まれていたようですが、今日では「げぎょ」と発音しています。
鐘楼堂
昭和46年町内外はもとより、十方有縁の檀信徒300余名の寄進により建立されました。

冬の風物詩“雪吊り”金剛院船松45年ぶりに復活
日本海側や東北地方などの豪雪地帯で、雪の重みからくる枝折れを防ぐ工夫で日本庭園などによく見られます。とくに兼六園の雪吊りは有名で、見たことのある方も多いのではないでしょうか。
ご本尊
金剛院のご本尊は、極楽浄土へ導く仏として信仰される阿弥陀如来。
安らぎに満ちた姿は、古くから地域の人々の信仰の中心となってきました。
また、札所本尊として不動明王を祀っており、煩悩や悪を断ち切り、正しい道へと導く守護仏として厚く信仰されています。
阿弥陀如来と不動明王、二尊が揃うことで、救いと守護の両面から寺の信仰を支えています。

本尊 阿弥陀如来座像
金剛院のご本尊は、衆生を極楽浄土へと導く慈悲深き仏、阿弥陀如来。
阿弥陀如来は無限の光と命を象徴し、人々を救済する存在として古くから信仰を集めている。金剛院の阿弥陀如来像は、寺の移転や再興とともに護持されてきた歴史をもち、地域の人々の心の拠り所となっています。
その安らぎに満ちたお姿に向かって手を合わせることで、安心と救いを願う人々の信仰を集めています。
札所本尊 不動明王
金剛院は 北関東三十六不動尊霊場 の札所の一つとなっており、札所本尊として 不動明王を祀っています。
不動明王は大日如来の化身とされ、右手に剣、左手に索を持ち、憤怒のお姿で煩悩や悪を打ち砕き、正しい道へと導いています。その厳しい姿は恐れを与えるためではなく、強い慈悲のあらわれなのです。
由来
金剛院前は、参勤交代の殿様の通り道
海王山、善福寺と号す。
かつては赤城山金剛院といい、現在の昭和村三室にあり、赤城山の別当職をしていました。明徳・応永年間に三浦沼田氏の沼田五郎景次が上洛して出家し、上沼須町に寺院を建立したのが開基といわれます。この沼田景次は、沼田太郎上野介景繁の三男であり、京都においては愛宕山威徳院の別当となっていました。その後、一時、寺運は衰微してしまったが、寛正年間の頃、中興一世の宏栄法印の時代になって沼田氏から愛宕地蔵尊像、寺領、供養料を賜り隆盛しました。また、沼田氏が滅んだ後、真田氏の時代になってから、元和元年(1615年)に伊豆守信幸から百間四面の地を賜り、現在の地に移っています。ここは江戸時代沼田町の中心道で、沼田街道として前橋に通じ、参勤交代の際の通り道でした。しかし、金剛院はこの後、数度の火災に悩まされているが、そのつど、再建立されているのは歴代の住職及び檀越の尽力の賜物といえます。

天台宗海王山金剛院
海王山金剛院は、かつて赤城山金剛院といい現在の昭和村三室にありました。赤城山の別職であったこの寺院は、何時の頃か兵火によって炎上してしまいました。明徳・応永年間(1390~1427)三浦沼田氏の沼田五郎景次(太郎上野介景繁の三男)が上洛して出家、上沼須町に寺院を建立したのが金剛院の開基となっています。影次は京都においては、愛宕山威徳院の別当となっています。この後、一時寺運が微したが、寛正年中(1460~65)中興一世宏栄法印の時代に、沼田氏より愛宕地蔵尊像・寺領・供養料を賜り隆盛。又、沼田氏び真田氏時代となってからは、伊豆守信幸より百間四面の地を賜り現在地に移った訳です。(元和元年・1615)

沼田街道の一つ
江戸時代、沼田と前橋を結ぶ「沼田街道」にはいくつかの道筋がありましたが、沼田藩主の参勤交代路として沼田と江戸を結んだ公道は、沼田から前橋方面に南北に流れる利根川の東岸を通ることから「東通り」と呼ばれていました。その道筋は、沼田城下から沼須集落に下って片品川を渡り、森下、南雲、溝呂木、米野、前橋、駒形、柴の各宿を経て利根川を渡り、五料宿を経て本庄宿で中山道に合流しました。写真は、沼田城下から沼須集落に下る道筋にある沼田市坊新田町(ぼうしんでんまち)の「金剛院の大燈籠」です。

現在の本堂
現在の本堂は天明7年(1787年)に、二十世の覚便法印によって建立されました。明治維新前は、上野東叡山寛永寺の末寺でしたが、維新の時に寛永寺が焼失したので、それより比叡山延暦寺の直末となりました。そして、明治14年(1881年)、二十八世の亮海法印の時に成田山新勝寺より不動明王を勧請しています。以降、信者団体である成田講(現・沼田成田山金剛講)が結成されて現在に到っています。

現在の綾戸トンネル
十六世江舟和尚は天保十五年(1844年)、綾戸の渓谷に隧道を開を始めました。現在でも交通の難所である綾戸に一年一ヵ月の期間と、三百五十両の寄付を募って工事を続け、長さ九間三尺、高さ、幅ともに九尺という隧道が完成しました。これによって利根から渋川方面への交通の便が良くなり、地元の人々に感謝されたといいます。現在、国道十七号線として使用されています。

大工の始まりは聖徳太子であった
遣隋使を派遣したり、国際交流をはかった聖徳太子は、今も大工職人さんたちが建築に使用してある「矩尺」を中国から持ち帰りました。四天王寺や法隆寺などの建築に携わり、1300年の歴史を持つ法隆寺は、世界最古の木造建築物ともなります。日本の建築技術は、この時から培われてきました。聖徳太子の命日2月22日は今日、家づくりに携わる職人さんたちの間で「太子講」という行事が今もなお継がれています。
金剛院仁王像
山門(薬医門)(仁王門)
施工年代不詳の旧山門は沼田城の西門を移建したもので、桔梗文瓦を使用した薬医門であったが、老朽化したため昭和33年8月に改築されています。
今の木造、切り妻造、瓦葺の仁王門は、平成19年に解体増築されたもので、仁王門落慶を平成20年に行いました。
金剛力士像は平成20年に作成されたものです。
山門について、昭和33年荒廃甚しくなってしまった山門を取りの山門は沼田城の西門であったと云われており、維新沼田城取りの門だけは金剛院に移築されたものであったと伝えられているが、これは西門でなくて単なる通用門であったとも思われます。なおこの山門の桔梗の紋入り瓦は寺で保存されています。


金剛院仁王尊像について
仁王尊は、元来、東大寺法華堂の執る金剛神のように一体のものでしたが、その分身として阿形(口を開ける)と吽形(口を閉じる)の二体となり、本尊や山門の左右に配置されるようになってからは、二王尊または仁王尊と呼ばれるようになりました。
仁王像としてよく知られているものに東大寺南大門のものがあり、また興福寺の金剛力士(阿吽二体)やこれらとほぼ同形の蓮華王院(三十三間堂)の二十八部衆の中の那羅延堅固王(阿形)と密迹金剛力士(吽形)の二体が代表的なものです。
仁王尊の配置には、向かって左に阿形、右に吽形を置く東大寺南大門の稀な型式と、右に阿形、左に吽形をまつるより一般的な型式(興福寺型)とがあります。
仁王像の体形についても東大寺型と興福寺型とに大別することができます。
金剛院仁王像は、木曽檜材の寄木造りで出来ています。体形は興福寺の金剛力士や蓮華王院の二像を参考にして、両眼には、水晶で作られた「玉眼」が目蓋の後ろからはめられています。「玉眼」は水晶をレンズのような形に磨いたもので、裏に截金(きりがね)で金色の輪を画き、中を黒く描いて瞳を表し、白眼の部分は玉眼の後ろに白い綿をつめ、血走ったところは、綿の繊維を赤く染めたもので表現しています。
顔の表情は、怒りの中に優しさを表現するために、阿形は新薬師寺の十二神将の内の伐沙羅大将のお顔を、吽形は東大寺戒壇院の四天王のうちの廣目天のお顔を模写させていただきました。
仁王像の眼は、普通、阿吽両形とも、カッと見開いた大きな眼をして他を威嚇しているものですが、金剛院の吽形は細い半眼に近い眼をしているので不思議に思われることと思います。戒壇院の四天王のうちでも廣目天のみが異端とも思える細い眼をしているのです。しかし、次の理由からその廣目天のお顔を拝借しました。四天王には獅噛がついています。獅噛とは牙を剥いて肩や腹帯に噛み付く形の獅子の頭です。ところが不思議なことに廣目天の獅子は牙をもっていません。このような獅噛みは恐らく他の寺院にも例を見ないのではないでしょうか。総てを許し受け入れる優しさの表れでしょう。この優しさにあやかって人の心を洞察するような優しい眼をもったお顔を写させていただきました。
像の彩色模様は、色褪せてはいますが興福寺の紋様を参考にさせていただきました。阿形の裳には一羽の立ち姿の鳳凰を中心とする卵型の宝相華団花紋を配し、裾縁には雲龍模様を高蒔絵風に盛り上げて画きました。また吽形には、漆箔による金色の輪宝を中心とする宝相華団花紋を配し、裾縁には鳳凰と唐草を交互に配しました。色調は、興福寺金剛力士の紋様の色素成分の分析結果にしたがい、朱・緑青・白緑・群青などの繧繝(うんげん)模様をアクリル絵具で表現しました。
裳裾の縁の境界には、截金(きりがね)による二重金線を入れ、紋様の輪郭線は金泥により金線を表現し、全体として格調を高めました。
晃進 自註

向かって左に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、右に阿形(あぎょう、口を開いた像像)を安置する。仁王様はお寺の境内や本尊諸仏をはじめ参詣の人々を守って下さる仏さまです。吐く呼気と、吸う吸気をあらわし、二人の呼吸がピッタリ合うので「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉は、この仁王様からうまれたのです。

材料:木曽檜、極彩色、裾等截金寄せ木造り
仁王尊造顕作者:前橋市元総社町 大仏師 近藤 晃先生
仁王門設計:沼田市坊新田町 高宮工業(株) 高宮健吾
大工棟梁 星野吉利
金剛院名誉住職 伊藤亮祐
天台宗のおしえ
天台宗のお寺のご本尊は阿弥陀さま、薬師さま、観音さま、地動さまなど多種多様ですが、それらは皆、法華経に説かれている、牟尼如来(無限の力をそなえた)と同一体であるからすべてのてみな仏、菩薩を敬信する

宗旨 天台宗
総本山 滋賀県 比叡山 延暦寺
祖師 高祖(中国)天台大師 智顎(ちぎ)
宗祖(日本)伝教大師 最澄(さいちょう)
本尊 天台宗のお寺のご本尊は阿弥陀さま、薬師さま、観音さま、地動さまなど多種多様ですが、それらは皆、法華経に説かれている、牟尼如来(無限の力をそなえた)と同一体であるからすべてのてみな仏、菩薩を敬信する